エピソード

エピソード

エピソード1
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☆倫理社会 大内孝道先生 心優しい鬼


大内先生の思い出「鬼の大内」と言えば、我々の年代(高29回卒)にとって忘れることの出来ない大内孝道先生である事は皆さん周知のことでありましょう。
実際に教えを享けたのは3年生のときでありましたが、その名は入学当時より耳にしており「鬼の大内には気をつけろ」が広く噂として流布していました。
確かにその体躯や眼光は、高校生を睥睨するに十分であり,高山聡太郎先生と双璧でした。
3年になり倫理社会を担当して頂きましたが、1年間一度も教科書を使用しませんでした。
ご実家がお寺であり、そのせいでしょうか毎週講話を拝聴していたように記憶しています。
又試験はテーマを決めて、いわゆる論文形式で提出すると言うものでした。
思い出すと、授業中は教師として見下ろして話されるのではなく、我々の目線でお話をされていたようです。そして噂とは異なり、大変生徒思いの先生でした。
 卒業後、同級生数名とご自宅にお邪魔させて頂きました。奥様とお嬢様の手料理でビール、ウヰスキーを頂戴し、先生はエレクトーンを演奏されて場を盛り上げてくださいました。
 怒るときは本当に生徒の事を思っておられたのだろうと、今更ながら思い返しております。又、大変にお茶目な面もお持ちであったと記憶いたしております。
 その大内先生は、昨年5月27日にご逝去されました。文中でお名前を出させて頂きました高山先生は昨年9月14日にご逝去されました。
高山先生の思いでは、機会がありましたら触れさせていただければと思います。お二人には心より感謝申し上げ、
ご冥福をお祈りいたします。合掌。


 高29回卒 髙橋清和


エピソード2
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☆生物 安土享先生 つけたあだ名は「ペンギン」


昭和35年4月入学のピカピカの1年生。初めての『生物』の授業でお目にかかったのは40歳後半と思われる、小うるさそうな小柄な教官、安土享先生であった。
開口一番、「今月末に七ヶ宿に水芭蕉の採集に行く者を募集する」との話であった。
先輩から「毎年恒例の行事で、参加すれば通信簿は最低でも『4』が貰える」との話を聞いておりました。
しかし『七ヶ宿』とはいったい何処なのか?白石から蔵王の麓、山形県境であった。
これを土曜日の授業が終わった後に自転車で出発するとの事である。
当時、自転車で毎日酒屋の御用聞きをしており、足には自信があったので参加を決めた。
当日は10人位の参加だったが、全員が軽快車で実用車は私だけであった。
先生は使い古したホンダの125CCだった様に記憶している。
白石まではみんな軽快な走りで、私は一番後ろからついて行くのが精一杯・・・
宮に着くと先生は悠然と一言「遅いな!」。それからの山登りであるから辛いのなんの。
周囲は暗くなり、自転車を止めれば何も見えない。そんな山道を懐中電灯だけを頼りにひたすら自転車を押し、宿となる七ヶ宿小学校に着いた時は既に午後11時を回っていた。
そこから夕食の準備。米を磨ぎ、味噌汁を作り、食べて床に就いたのは日付が変わった午前1時過ぎでした。
翌朝は寒さで目を覚まし、朝食後にいよいよ「水芭蕉」の群落まで出発。自転車で走る事30分、ようやく目的地に到着した。
初体験の我々に「水芭蕉とは上に出ている高さの3倍以上も下に根があるので、周りを出来るだけ深く掘りなさい」との指示。この日の経験が、現在も花を愛でる私の原点ではないかと思っています。
帰りは早いこと早いこと、行きは7時間掛かった山道を1時間で走り降りて来ました。
次の生物の授業で「水芭蕉採集に参加した者は、それなりの厚遇をする」との話が出た。
この先生の授業は変わっていて、授業を聞いていなければ肝心な時に苦労してしまう。
「試験は教科書の○ページから○ページの間に話した内容から出題する」との事。
ノートの持込も可能であったが、ノートを録っていない生徒には大変な事態になった。
私はノートを持っておらず、代わりに教科書に書き込んでおりました。
その申し出をしますと「教科書からは出題しないから持ち込んで良い」との事、普通では考えられない言葉であった。
お陰様で試験の点数はそんなに良くなかったのですが、1年間通じて通信簿は『5』を頂きました。
我々が先生に付けたあだ名は「ペンギン」歩く姿がソックリでした。
そんな一風変わった先生の思い出でした。


高15回卒 高橋正人


エピソード3
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☆古典 平嶋正広先生 仙商小唄にも登場


仙商を卒業して38年、仙台を離れて30年・・・記憶は、かなり曖昧になっている今日この頃です。
私は昭和45年、仙商に入学しました。クラブ活動は「演劇部」でした。
部活の顧問は、古典の平嶋正広先生。仙商小唄にも出てくる名物教師でした。
どこが名物かと問われても、ちょっと困るのですが、演劇部には昭和23年の設立から関わっておられたそうです。
平嶋先生が教鞭を執っておられた時代は、日本が戦後から復興、そして東京五輪、大阪万博へと進む激動期でした。
日本が経済大国になりつつ、人は「心」をどこかに置き忘れたような時代でもありました。
その中にあって、明治生まれの日本の漢(おとこ)の心意気を持っておられたのが、平嶋先生でした。
平嶋先生に理屈は通用しません。
物事をはっきりさせるのを好まれ、御自分の信ずるところは決して曲げない先生でした。
時として、理屈に合わない事も無い訳では無かったみたいですが、全く通用しません。
ストレートに感情を表される先生で、それだけに分かりやすい人、とも言えます。
そのような平嶋先生の熱気は、仙商を、仙台を、宮城県を、日本を、そして我々生徒を愛する心から発しておられたのだと思います。
『仙商の重鎮』平嶋先生の机は職員室に無く、確か専用の部屋を構えておられました。
今思うと、すごい待遇です。
その平嶋部屋で、先生からゲンコツを貰った事がありました。
演劇部でちょっとした悪戯がバレての鉄拳制裁でした。
演劇部の活動について、平嶋先生は一切口出ししませんでした。
そのため、私たちは自由に脚本を選び、全国高校演劇大会や商業祭(昔の仙商の文化祭の呼称)公演に向け、思いっ切り練習できました。
昭和45年12月、仙商演劇部は、全国高校演劇大会宮城県予選を2位通過し、青森市で開催された東北大会に出場しました。
私もスタッフの一人として参加しましたが、第4位の好成績も東北大会通過はなりませんでした。
引率の平嶋先生は何も言わず、旅行?を楽しんでいる風でした。
無骨で破天荒、しかし生徒への愛情は深く、ただ愛情表現が下手な明治の漢・・・平嶋先生が退官してから2、3年後に、仙商演劇部は廃部となりました。
新生・仙台市立仙台商業高等学校の公式Webサイトを見ると、演劇部があるようです。
  いつの間にか復活したようで、大変うれしく思います。
  そして、遠い昔を思い出し、故郷仙台に思いを馳せています。

高25回卒 大槻政吉


エピソード 番外編
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☆元プロ野球選手  八重樫幸雄氏 伝説の大先輩に会う 


 平成20年12月21日、私の母校でもある仙台二中が、総合学習の一環として、卒業生である八重樫幸雄氏を招き「講演会」「中学生への野球指導」を開催した。
私は、その後にホテルリッチフィ-ルドで行なわれた「八重樫さんを囲む会」に参加し、伝説の大先輩にお目に掛かる幸運に恵まれた。
 川内の生まれ、立町小~仙台二中~仙台商高と進み、現東京ヤクルトスワロ-ズ(旧ヤクルトアトムズ)にドラフト一位指名され、プロ野球の世界で活躍した我々が憧れたスーパー・スターである。
身長180cm体重90kgを優に超える体格、そして日焼けした顔にギラリと光る鋭い眼光。
たくさんの来賓、関係者、仙商野球部OBの輪に囲まれながらも、プロの厳しい世界で39年を生き抜いたオ-ラは隠しようも無い。
さぞやお疲れであろうと思われる八重樫先輩であったが、57歳になる現在も体を鍛え続けている効果の顕れなのであろう、疲労感など微塵も感じさせない。
仙台商業時代の思い出話、プロの世界に入ってからの逸話など非常に興味深い話をたくさん聞かせていただいた。
 球界では異例と思われるヤクルト一筋40年。
今年からはコーチ職を離れ、東北・関東地区スカウト担当の重責を担う。
「走るのが速い子、肩の強い子がいたら知らせて欲しい。」と精力的に声を掛けていらした。
二次会にもお付き合いいただき、写真もたくさん撮らせていただいた。
伝説の大先輩は、見掛けからは想像もできない程優しく、心配りの細やかな人
であった。


高29回卒・庄子篤